再会

    
「母さん。ちょっと出かけてくるよ」

 雪兎は靴を履きながら、台所に
いる母親に言った。

「あら、こんな早くにどこへ行くの? 昨日帰ってきたばっかりじゃない。引越しの片づ

けで疲れているんだし、今日は家でゆっくりしたらどう?」

 母親は洗い終わった食器を布巾で拭きながら、玄関へと姿を見せる。

「久しぶりの地元だしね。昨日帰ってくる時に通った道も、随分様変わりしていたし、ど

んな風に変わっているのか気になるんだよ」

 靴紐を結び終えた雪兎は玄関のドアに手をかけると、

「そうだ。ちょっと遠出してこようと思うし、多分夕飯過ぎると思うから今日はいいや。

どっかで食べてくるよ」

 そしてドアを開け、雪兎は懐かしい故郷の街を歩き始めた。

 

 

 実に四年ぶりだった。雪兎が地元である、この地に戻ってきたのは。

 高校を卒業と同時に、都会にある大学へと進学した雪兎。父親の反対を押し切って

の大学進学だったため、父親から学費の援助は一切無かった。それでも大事な一人

息子の生活を心配した母親は、微々たるながらも夫に内緒で仕送りを送ってくれてい

たが、都会の地価やら物価は今まで住んでいたところよりも高い。仕送りは比較的安

く借りられたアパートの家賃くらいにしかならなく、やはり学費の面では雪兎自身でどう

にかするしかなかった。

 そのために大学が終われば夜遅くまでバイトであり、休みの日になれば丸一日バイ

トをして学費を稼ぐ毎日を送っていた雪兎は、夏休みになっても学費稼ぎをしていたた

めに、卒業までの丸四年、全く帰郷することが無かったのだ。

 それでも月に一回、家に近況報告の電話は入れていた。

 母親も心配しているのだが、実のところ、父親のほうがもっと雪兎を心配していたの

だ。日々のバイトに忙殺され、月に一度も電話をしなかった時なんて、驚くことに父親

がわざわざアパートへやってきたこともあったりした。

 昔から雪兎を可愛がっていた父親には、我が子が目の届くところ
にいないのは寂し

かったのだろう。息子はすでに親離れをしているというのに、未だに親の方が子離れ

出来ていなかったらしい。

 だからだろうか。普段はむすっとしたような顔をしている父親が、昨日はやけに嬉しそ

うな顔で雪兎と晩酌をして、母親に飲み過ぎと怒鳴られていたのは。

 雪兎は生まれてから高校卒業まで、ほぼ毎日のように通っていた懐かしい道を歩き

ながら、昨日のその事を思い出して思わず笑いがこぼれてしまう。

 そういえば家を出るときに父親の姿は無かった。普段はあまり飲まない人のために、

きっと部屋で酔い潰れてまだ夢の中にいるに違いない。

 ふと雪兎の足が止まった。目の前にはやや距離長な急勾配の坂がある。

「あれれ。いつの間にこんなところまで来たんだろ。そんなに歩いてたかな?」

 思い出に浸りながら歩いて雪兎は、自分でも気づかぬうちに随分歩いてきていたらし

い。

 急勾配の坂を見ながら、雪兎はどこか複雑そうな顔になると、

「ここも……懐かしいな……」

 切なげな声でポツリと言葉を漏らした。

『高校へと向かう通学路である、上るのが一苦労の坂』

 他の生徒たちにはそれだけの、かなり恨めしい坂なのだろう。

 だが、雪兎にとっては違う思い入れがあった。

「……冬香……」

 ここは高校時代に好きだった人――冬香との、登校時の合流地点だったのだ。

 雪兎と違い、坂の上に家がある彼女は、毎朝坂の頂上で雪兎がやってくるのを待っ

ていた。

 冬香が坂の上で、自分がやってくるのを待っていてくれている。

 それを思うと、こんな坂くらい雪兎には何の障害にも感じられなかった。むしろこの坂

に感謝したいくらいに思っていた。

 上り終えた時に彼女がかけてくれる「ご苦労様」の一言と、とびっきりの天使の笑

顔。それが雪兎の毎朝の楽しみだった。

 とはいえ、二人は決して恋人同士では無かった。

 お互い好き合っていたのだが、どちらもはっきりとした言葉を出す勇気が無く、微妙な

関係のまま高校時代を過ごし、そして……雪兎の大学進学により二人はそのまま離

れ離れになってしまった。

 けれども雪兎はそれほど悲しまなかった。体は遠く離れていようとも、携帯電話に

よって連絡は取れると思っていたから。だから告白はまだ先でもいいかと高をくくってい

た。

 しかし大きな誤算が突如雪兎を襲う。

 ちょっとした不注意で携帯電話を壊してしまったのだ。

 それによって電話番号も、メールアドレスも、冬香に繋がるすべてが消えてしまった

のである。

 雪兎は悔やんだ。

 何で携帯を壊してしまったんだ。何でアドレスをメモしておかなかったんだ。何で彼女

の家の電話番号すらも分からないんだ。

 すぐにでもこの事を冬香に会って伝えなければ。

 そう思うものの、そんな時間的余裕も金銭的余裕も、雪兎には無かった。

 それ以前に、冬香も家元を離れアパートを借りて専門学校に通っていたために、会お

うにも正確な位置が分からなかった。

 大まかな場所は本人から聞いているが、それはどこの県の何市にあるか程度の情

報である。それをくまなく探すとなれば、一朝一夕どころか、一ヶ月かかっても見つかる

かどうか。

 通ってる専門学校から何とか突き止めようとも考えたが、よくよく思い返してみれば

記憶に残っていなかった。専門学校に通っていることしか思い出せないために、本当

にお手上げ状態だったのだ。

 しかしその後悔も悲しいことに、次第に増す日々の忙しさの中に薄れていってしまっ

たのである。

 だがこの坂を見て、忘れていた思いが雪兎の頭の中で一気に蘇っていく。

「……はぁ……」

 再びこみ上げてくる後悔の渦。

 携帯が壊れてからすでに三年半過ぎていた。

 この坂を上って少し歩けば彼女の家を通ることになる。それを思うと雪兎は坂への第

一歩を踏み出せないでいた。 

 向こうは専門学校に通っていたのだから、雪兎よりも二年早く卒業したことになる。

 もしかしたら家に戻ってきて、またあの家に住んでいるのかもしれない。もし家の前を

通って、彼女にバッタリ会ったらどうすればいいんだろう。突然連絡を絶ってしまったの

だ。きっと怒っているに違いない。それ以上に、自分の存在はもう遠い過去の人となっ

ているかもしれない。

 色々な事が頭の中を駆け巡る。

「……今更合わす顔なんてないよな。この道を通るのは止めておこう」

 雪兎が踵を返そうとした時、坂の上に誰かが姿を現した。

 ここからでは多少の逆行がかかっているため、それが誰なのかは分からない。だが

シルエットからして、髪の長い女性のように見えた。

――女性

 そう思うと雪兎はその場から動けなくなった。

 まさかな。近所の誰か他の人だろう。そうに決まってる。

 頭の中でそう納得しようとする雪兎だったが、不思議な事に直感的に分かってしまっ

た。それが誰なのかを。

 その人物はゆっくりと坂を下り、雪兎の元へとやってくる。

 雪兎の数メートル前まで下ってくると、そこで『誰か』は立ち止まる。

 そして懐かしい声で雪兎に声をかけた。

「久しぶりだね、雪兎」

「……あぁ、久しぶりだな、冬香」

 直感はまさに的中してした。

 今、雪兎の目の前にいるのは、四年振りに再会した想い人。そして今一番雪兎が会

い辛いと思っていた女性だった。

 昔よりも随分と大人びている。それに綺麗になってた。

 短かった髪は長く伸ばしており、濃くも無く薄くも無いような化粧を施し、唇も艶っぽさ

を際立たせるような紅を塗っていた。

 怒っているかと思っていたが、雰囲気からしてそれはないように伺える。

 でも意外と心の中では怒っているのではないかと考えてしまい、やはりどこか居心地

が悪い。

「こんな早くに散歩?」

「散歩と言うか……まぁ……散歩かな」

「何それ。ちょっと日本語がおかしいぞっ!」

 冬香はクスクスと笑う。

 それにつられて雪兎も笑ってしまった。

 その他愛無い些細なやり取りだが、雪兎には冬香が怒ってないことを確信出来た。

長年の付き合いの賜物なのだろう。

 緊張が一気に解けた雪兎は、昔のような気持ちになれてホッと安心した。

「いやさ、昨日こっちに帰ってきたんだけど、最後に見たときと随分街が様変わりしてる

じゃん。だからちょっと偵察しに行こうかと思ってさ」

「そうだよね。四年間全然こっちに戻ってきてなかったみたいだし、街の変化は目まぐ

るしく感じちゃうよね」

 すると冬香は少し考えた風な仕草をする。そして、

「それなら私が街を案内してあげるよ」

「えっ?!」

 突然の提案に驚く雪兎。

「ちょうど私も街のほうへ行くつもりだったんだよ」

 冬香はその手を握ると、

「さあ、久しぶりの再会なんだし、じっくりデートしようよね!」

 外見を裏切るような、昔のような活発さで街へと向かって歩き出していった。

 

 

「こんなに歩いたのは久しぶりだったかも。疲れちゃったね」

 冬香は家から比較的近くの公園に寄ると、そこにあったベンチに腰掛けた。

 西の空を見れば、すでに太陽は赤く染まっている。

「あれだけ歩き回れば疲れるだろうよ。全く、外見は大人になったと思ってたのに中身

は相変わらずかよ」

 今日は本当によく二人は歩いていた。

 近所の商店街を回り、少し遠出して街へ行き、そこであちこち見て回っていた。

 最近開店した古着屋。昔から人気のあるカフェ。流行の服が並べられているファッ

ションショップ。偶然通りかかったアクセサリーショップ。

 ただ街の案内というよりも、冬香の言うようにデートに近い流れだった。冬香の行きた

いところばかり行っていたように思える。

 それでも雪兎は文句一つ言わずに回った。

  街の変化を確かめることは今度でも出来る。でも、冬香と一緒にこうやって回る機会

は滅多にないのだ。この僅かな時間を有意義に、冬香の満足するように過ごしてあげ

たかったのだ。

 その気遣いもあり、冬香は疲れていながらも満足そうな表情をしている。雪兎はその

笑顔を見て思わず微笑んでしまう。

 が、すぐに雪兎の顔から笑みが失せた。代わりに真剣な表情になる。

 今日一日、歩き回りながら色々な会話を交わした。

 どうでもいいような最近のニュースや流行について。高校時代の思い出話。お互いの

進学先での出来事。冬香が専門学校を卒業して勤めている会社のこと。

 たくさん会話を交わしたのだが、その中に決して出てこなかった話題があったのだ。

「どうしたの? 何だか難しい顔してるけど」

 雪兎の変化に気付いた冬香は、不思議そうに雪兎の顔を見る。

「あのさ、冬香は俺のこと怒ってないのか?」

 冬香の表情からも笑顔が消えた。

「怒るって?」

「ほら、突然音信不通になっちゃっただろ? だから――」

 言葉を遮り冬香は言った。

「怒ってないよ」

 そしてもう一度、まるで自分に言い聞かせるように、

「私は怒ってなんかいなかったよ」

 はっきりと否定の言葉を返す。

「そっか。てっきり怒ってるかと思った。とりあえず……ごめんな!」

 雪兎は冬香に向かって深々と頭を下げた。そしてそうなった理由
をしっかりと伝える。

 冬香は怒っていなかったのが分かっても、こうしないわけにはいか
なかった。

 だってきっと冬香は――

「怒ってなんかいなかったけど、心配したんだからね! すぐに私にそれを伝えてくれ

ても良かったじゃない! もしかしたら事故にあって……それで死んじゃったのかもって

……」

 そこまで言って冬香は泣き出してしまう。

 やはり何も思っていなかったわけがない。この事を会話に出さなかったのは、出せば

泣いてしまうと分かっていたからだろう。

 雪兎はそんな冬香を優しく抱きしめた。

「心配かけてごめんな。言い訳にしかならないだろうけど、一人で暮らしていくために精

一杯で……その……きっと冬香なら俺を信じていてくれると思って――」

 その言葉を聞いた冬香は突然ビクリと肩を震わせた。そして軽く雪兎の胸を押して、

自分から離した。

 一瞬何が起きたか理解できず、雪兎は唖然としてしまう。

 冬香が俺を拒絶した?

 そんな考えが脳裏に浮かぶ。

 雪兎が覚醒し声を出す寸前に、先に冬香が口を開いた。

「良ければ今から家に来ない?」

「!?」

 その言葉は強力な破壊力を持っていた。目も心臓も飛び出そうなくらい衝撃的だ。

 雪兎は頭の中が再び混乱してしまう。

 その意味を汲み取ると、つまりは――

「ちょうど昨日から親は旅行に行ってて他に誰もいないから、心配しなくていいよ。だか

ら……ね?」

 

 

 背後から、パタンとドアの閉まる音が聞こえた。玄関のドアが閉まる音だ。

 雪兎は冬香の申し出を断ることが出来ず、冬香の家へとやってきた。

 玄関を上がると二階へ案内される。通された部屋は、当然だが冬香の部屋だった。

「ちょっと待ってて」

 雪兎を部屋に案内すると、冬香は再び階段を降りていく。

 一人残された雪兎は、どこか緊張した面持ちでカーペットの上に座る。

 これから起こるだろう展開を想像すると、胸の鼓動が高鳴り、体が小刻みに震えてい

た。止めようにも自分の意思ではどうしようもない。

 もしこの状態を見られでもしたら恥ずかしくてたまらない。

 他の事を考えて気を紛らわそうと雪兎は考え、部屋の中を見回した。何か興味を引く

ものはないだろうか。

 部屋の中は綺麗に片付けられていた。

 雪兎のように、読んだ本はそのままにしておらず、しっかりと本棚に納められて綺麗

に並べられている。その本はすべて活字小説のようだ。漫画は一冊も見当たらない。

 昔は雪兎と漫画の話でよく盛り上がっていたとは思えない風景だった。今まで冬香

の部屋には入ったことがなかったが、昔からこうだったのだろうか。

 パイプで作られた簡易机に目をやれば、そこには可愛いぬいぐるみが並んでいる。

中には昔、雪兎があげたぬいぐるみの姿もあり、だいぶ色褪せている。手に取ってよく

見てみれば、ところどころ修復したような跡も見える。

 自分があげたものを余程大事にされていたのが分かり、雪兎は胸のうちが温かく

なっていくのを感じた。過去の楽しかった思い出が脳裏に蘇っていく。

「そんなジロジロ見ないで。恥ずかしいよ」

 不意にかけられた声に雪兎は内心驚いた。だがそれを表には出さない。

 振り向けば冬香が後ろに立っていた。

 過去へトリップしていたために、ドアを開けて部屋へ入ってきたのに気付かなかった

ようだ。

 冬香は手に持っていたお盆を、床に置かれている丸いガラステーブルの上に置く。

 そこにはクッキーと紅茶のカップが乗っていた。

 クッキーは何種類かあり、定番の丸型や四角、スティック状のものまであった。その

全てのクッキーの形が歪に見える。

 もしやこれは――

「昨日作ったんだけど、ちょっと形が崩れちゃった。でも味は問題ないし食べてみて」

 冬香はスティック状のクッキーを一つ手に取ると、「はい」と雪兎に差し出す。

 受け取った雪兎はさっそく口に放り込み、その出来栄えを味わう。

「辛っ!」

 感想はその一言に尽きた。全く甘さを感じやしない。

 最初の何噛みかは味を感じなかったのだが、すぐに鼻がつーんとするような感覚と共

に、舌に辛味の渦が巻き起こったのだ。

 すぐにカップを手に取り、紅茶で口の中を落ち着かせる。しかし舌は痺れたままだ。

「なんだよ、これは」

 舌を犬のように出しながら冬香に文句を言う雪兎。

 そんな驚きの表情をした雪兎を見て、冬香は面白そうにお腹をかかえて笑い始める。

「ごめんね。それは唐辛子クッキーなの」

 余程面白かったのだろう。冬香は目尻に涙を溜めながらそう答えた。

「……唐辛子? 何でそんなクッキー作ったんだよ。自分でこれを食べるつもりだった

のか?」

「うん」

 さも当然のように答えられたために、「マジかよ」と雪兎は目を大きく見開いてしまう。

 まさか味覚が麻痺しているのだろうか。

「これはダイエットクッキーなの」

「ダイエットクッキー?」

「うん。唐辛子には色々効果があるみたいで、冷え性を解消したり、病気に対する免疫

力の向上とか……あと、辛味成分のカプサイシンが脂肪を効率よく燃焼してくれる

……だったかな」

「やけに詳しいな」

「雑誌の受け売りだよ」

 冬香は立ち上がると、本棚の横にあったカラーボックスを開けた。

 中から出してきたのは一冊の雑誌。

 パラパラ捲っていくと、端を二つ折りにして印をつけてあるページがあった。

 そこに載っていたのは何種類かのクッキーのイラストと、その作り方の一覧。

「なるほどね」

 確かに唐辛子クッキーのイラストがあった。

 他にも『脂肪燃焼が抜群・ココアクッキー』や『朝食におすすめ・バナナクッキー』など

のキャッチコピーでおいしそうなイラストが載っている。しかし『食物繊維の毒素排出

効果・おからクッキー』とか『ぽっこりおなかに米ぬかクッキー』なんてのも書かれてお

り、一概においしいクッキーが載っているようではないらしい。唐辛子クッキーもその

一つだ。

「ということは、他もクッキーもこれのどれかだと?」

「そうそう。これでも結構おいしいんだよ?」

 そう言って冬香は何でもない風に、唐辛子クッキーなどを次々と食べて始めた。

 

 

 変わった種類のクッキーは避け、雪兎は普通そうなクッキーを食べながら冬香と昔話

に花を咲かせている。

「それってあれだろ。達也が玲奈に告ってこっ酷く振られて、それで自棄になって偶然

近くにいた女子に告白したらオッケーしてもらえたってやつ」

「そうそう。あれには笑えたよね。陰からこっそり見てたのに、あまりに可笑しくて、それ

で大笑いして見つかっちゃったし」

 その時の事を思い出し、二人は向き合って笑っていた。

「あの二人はまだ付き合ってんの?」

「どうかな? たまに達也を街中で見かけるけど、隣に誰かいるの見たことないかも」

「それなら別れたのか」

「かもね」

「…………」

「…………」

 さっきまで賑やかだった空間が、突如静寂に支配される。まるで上唇と下唇が縫い

付けられてしまったかのように、二人は口を閉ざしてしまう。

 だが言葉は消えたものの、まるでアイコンタクトで会話をしているんじゃないかと思う

くらい、二人の目は交差しあっていた。

 奇妙な雰囲気が二人を包んでいる。

 どれくらい見つめ合っていただろう。十分のような気もすれば、まだ二分も経ってな

かったようにも思える。

「その……いいかな?」

 雪兎が重い口をやっと開いた。

「……うん。いいよ」

 雪兎の短い一言で、言葉の意味することが理解できたらしく、冬香はそっと立ち上が

ると雪兎の隣で移動した。そして体を傾け雪兎へと預けると、ゆっくりと瞳を閉じる。

 無防備になった冬香の唇を雪兎は奪った。軽い触れ合いではなく、深い口付け。濃

厚なキスだ。

「んっ」

 体を預けたとはいえ、冬香もただ受身ではいなかった。両手で雪兎の頭を固定して、

雪兎同様貪りあうようなキスをする。

 高校時代、一度たりともなかった触れ合い。したいと思い続けていたのに、その一歩

が踏み出せずに終わってしまった青春時代。突然に連絡が途切れ、もう二度とこんな

事が起こるようなチャンスはないと無理やり諦めた過去。

 そんな今までの募っていた想いをすべてぶつけたかのような激しさだった。

 やがて濃厚なキスが終わると、雪兎は冬香の服に手をかける。

 冬香は頬を赤らめて恥ずかしそうな表情をするが、雪兎のされるがままに一枚、また

一枚と服を脱がされるのを見ていた。すぐに身を覆うものが下着だけになってしまう。

 その肢体はダイエットクッキーなんて作る必要がないと思えるほどの綺麗な体系をし

ている。無駄な肉付きは見当たらず、傷一つ無い肌をしていた。体が細い分、胸が強

調されて大きいように見えなくもない。

 さらに雪兎が残った下着も脱がそうとすると、今まで無抵抗だった冬香が雪兎の頭を

押しのける。

 一瞬、『拒否された』と思い、上昇していた熱気が一気に下がる。

 が、それは雪兎の思い過ごしだった。

「このままだと恥ずかしいよ。お願い、電気は消して」

 その言葉を聞き、思わず胸を撫で下ろす雪兎。だが、内心かなり残念に思った。

 暗くしたら視界が悪くなってほとんど見えなくなってしまう。そうすると冬香の綺麗な

体が見れないじゃないか。

 しかしここで断るわけにはいかず、雪兎は渋々ながらも部屋の電気を消した。

「これでいいよな?」

「うん……」

 そして最後の一枚までも雪兎に全て取り払われてしまうと……二人は今までの思い

のたけの全てをぶつけあうように、激しく互いを求め始めた。

 

 

 行為が終わった後、服を着て電気をつけると、二人は恥ずかしそうな顔で見つめ合

う。悪い意味ではない、ぎこちない空気が二人を包んでいる。

 念願の想いがやっと成就することが出来た。携帯電話の破損で途切れてしまった関

係だったが、冬香はまだ俺のことを想っていてくれたんだ。ここから新しく再び始めてい

こう。

 雪兎は冬香を見てそう思った。想いは冬香も同じだと確信していた。

「冬香」

 はっきりと言葉で気持ちを伝えよう。

「俺は冬香が好きだ」

「……うん」

「だから俺とつ――」

「待って!」

 雪兎が勇気を振り絞って言おうとした言葉を、冬香は大きな声を出して止めてしまう。

拍子抜けしたような、肩透かしをくらったような、そんな気持ちになる。

 そして、その後に冬香が放った言葉に驚きを隠せずにはいられなかった。

「その先はダメ。言わないで」

「えっ――?! それって……」

 一体どういう意味なんだ?

 雪兎はその言葉の意味することを理解できずにいた。

 その先の言葉――『告白の言葉を言うな』と冬香は今言った。それはつまり、雪兎の

想いを受け入れることができないということになる。

 予想外の言葉に雪兎の思考は止まってしまう。同時に体も石化したように硬直してし

まった。

「ごめんなさい」

 目を伏せて冬香は謝る。

「何で……?」

 自分でも情けないと思う、弱々しくかすれた声で雪兎は聞く。でもこれが精一杯の声

だった。強張った顔の筋肉をむりやり動かして声を出せただけでも頑張った方だ。

「それは――」

 冬香は穿いていたズボンのポケットから光る何かを取り出し、それを雪兎の目の前

へ差し出す。

 指輪だった。それも、シルバーアクセなどの装飾品ではなく、れっきとした宝石のつ

いた指輪だ。蛍光灯の光に当たって虹色の輝きを放っている。

「こういうことなの」

 冬香は指輪の外側を三つ指で挟んで持つと、そっと左薬指にはめた。

「その指輪ってもしかして――」

「うん。婚約指輪。……私、来月結婚するんだ」

 指輪を大事そうに擦りながら冬香は答えた。

 頭をダイヤモンド並みに硬い鈍器で殴られたようだ。状況を理解できず、否、信じられ

ず、頭の中がぐらんぐらんと揺れたように視界が歪む。

「……嘘……だろ?」

「ごめんなさい。雪兎のことは私も好きだった。でも、突然連絡がなくなって……私のこ

とはもう忘れたのかと思って……だから……」

 その先の言葉を冬香は言わなかった。この先を言うのは胸が切なくなってしまったよ

うだ。

 だが、さっき「婚約指輪」と言った時点で、その先の言葉は聞かずとも分かる。

 雪兎への想いを断ち切り、新しい恋をしていたのだ。そしてその恋が成就し、今現

在、冬香の指にその証となるものがはまっているのである。

 すでに雪兎が隣から入り込むような余地は存在していないのだ。

 だからこそ、冬香は雪兎の告白を受けるわけにはいかなかった。

 いや、それ以前に、聞くわけにもいかなかったのだ。

 その言葉を聞いてしまえば、忘れようとしていた想いが再び蘇ってきてしまう。それだ

けは避けたかった。自分はすでに婚約している身なのだから。

「それなら……婚約しているなら、何で俺とこんなことを?」

 雪兎の疑問はもっともだった。

 すでに冬香には将来の伴侶となる相手がいるのだ。それなのに、なぜ雪兎と関係を

持つことにしたのだろう。

 冬香は雪兎の顔を見て微笑むと、少し遠い目をしながらその疑問に答えた。

「過去の清算……かな」

「どういうことだ?」

 たった一言で言われても理解できない。

「私はプロポーズを受けて、もうすぐ結婚するわけなんだけど、ただ一つ心の取っ掛か

りがあったんだよね。それが、簡単には断ち切れない雪兎への想い。できることなら、

独身でいられる間にこの取っ掛かりをどうにかしたいと思ってたところに、偶然の朝の

再会。これはチャンスだと思ったんだよ」

「チャンス?」

「うん。雪兎への想いを断ち切るための、最初で最後のチャンス」

 真っ直ぐな瞳ではっきり言われてしまい、雪兎は胸がズキリと痛む。

 言葉の中には、すでに雪兎への気持ちの傾きは許さないという想いが込められてい

る。それが雪兎には耐え難い悲しみだった。

「だから私は独身である今のうちに、雪兎への想いを清算したかったんだよ。だから、

私は雪兎と最初で最後の繋がりを求めたの」

 そこまで言うと、冬香は申し訳なさそうな顔をして「ごめんなさい」と謝った。

「いいよ、謝らなくたって」

 謝られてしまうと何だか惨めな気持ちになってしまう。これは捨てられた気持ちに似

ている。とても苦しい。この場にいるのは耐えられない。

 すでに雪兎の精神状態は限界だった。これ以上、心に衝撃があったら壊れてしまい

そうだった。

「ごめん。もう帰るわ」

 極力冷静さを装い、雪兎は立ち上がってドアへ向かう。

 冬香は何も言わない。そのまま座ったまま、雪兎に背中を向けたままだ。

 ドアを開けると、雪兎は一度だけ冬香の方を振り返った。

「結婚おめでとう。お幸せに」

 最後の強がりを言うと、雪兎は再び向き直りゆっくりとドアを閉めた。

 その間際に、「もう少し早く戻ってきてくれれば私は……」と冬香が言ったのを雪兎は

未来永劫知ることはない。

 

 

 その後、雪兎は冬香と出会うことはなかった。結婚すると、相手の家へと引っ越して

しまったのだ。

 あれから失恋のショックで立ち直れずにいた雪兎だったが、心の傷は時が癒してくれ

た。半年も経つ頃には心の整理もつき、現実を真っ直ぐ見れるようになっていた。

 一年も経つ頃には、日々の忙しさに冬香のことを考えることもなくなり、雪兎の中で

過去の人になりつつあった。

 そんな矢先、雪兎の元へ一通の葉書きが送られてきた。

 差出人は――冬香からだった。当然だが苗字が変わっている。しかしそれに胸が痛

むようなことはすでになかった。

 何の葉書きだろうと裏面を見ると、それは絵葉書だった。冬香と、冬香の腕に抱かれ

た可愛い小さな赤ん坊が写っている。

 そして書かれている一つの言葉。

『子供が生まれました』

 さすがにそれには複雑な気持ちを禁じえなかった。

 好きだった人と、全く知らない男の子供だと思うと、いくら吹っ切ったと思っていても少

しはショックを受けてしまう。

 でも、なぜこんな手紙をわざわざ送ってきたのだろう?

 写真を見ながらそんなことを雪兎は思った。

 結婚式にも出なかったんだぞ。そんな俺なんかに何で?

 ふとその写真に違和感を感じた。文字の書かれている部分が、どうも段差になってい

るように見える。指でなぞってみると、確かに段差があるのが分かる。

 どうやらココの部分だけ剥がせるようになっているらしい。上のシール部と周りの写真

の絵がぴったり一致しているために、しっかり見ないと判断できない精巧さだった。

 さっそくその部分を剥がしてみる雪兎。

 そしてその下に書かれていた言葉を読み、

「なっ――?!」

 驚きのあまり絵葉書を手から滑り落としてしまう。

「嘘だろ……」

 雪兎の顔がみるみる間に青ざめていく。

「俺は……信じないぞ……。こんなことあるはずが……」

 見間違いなんだと自分に言い聞かせ、雪兎は床に落ちた絵葉書を再び手に取り、唾

を一飲みしてからもう一度見た。

 隠されていた部分に書かれていた言葉。それは、

 

 

『この子はあなたの子供です』

 

 

 

 

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あとがき

ちょっぴりアダルトであり、珍しくバットエンド的な終わり方です。
いつも恋が成就してちゃつまらん(笑)
そしてやっぱり肝心な部分は恥ずかしい&描写力が足りない理由で書けません!

さて、今回の簡単な設定は、
「昔好きだった人との再会。勇気を出して告白しようとする。だが、すでに相手は婚約中だった」
こんなちょっと大人の切ない恋模様を書きたかった。
なのに、出来た作品はこんなです。

どこをどう間違ってアダルトやホラーが入ったのだろうか。