それはありえないキスだった。
気持ちのいい陽気に当てられ、家の近くにある公園の芝生の上で寝ていた俺の唇
に、全く知らない女がいきなりキスをしてきたのだ。
「ん――」
それも軽く触れるだけではなく、唇を押し付けるように。
「んっ、んっ……んっ――」
一回だけではなく、重ね重ね何回も繰り返して。
何が起きているのか、俺にはさっぱり分からなかった。想定外の事態に、頭の中は
真っ白になっている。
何も考えられず、何も行動できない。
見知らぬ女のするがまま、されるがままに、俺はキスの嵐の直撃を受けていた。
ファーストキスを奪われてからまだ三分も経っていないはずだが、すでに唇を奪われ
た回数は軽く二桁になっていた。
柔らかい感触を唇で感じるたびに、俺の胸は高鳴り続ける。いい加減に破裂しそうな
勢いだ。
俺は最初のキスの時点で、驚きのあまりに目を見開いていた。そして女と視線が交
差したのだ。間違いなく、女は俺が起きているのを知っているはずなのに、まるでそれ
を気付いていないかのように、瞳を閉じて俺の頬を両手で固定しながら口づけを続けて
いる。
何が何だかさっぱり理解できない。これは夢なんだろうか。
でも、この至近距離だからこそ感じる甘く熱い吐息や、口を塞がれているために鼻か
ら呼吸をしたときに感じる、女性特有とも言えるほのかにいい香りは、夢とは到底思え
ないほどのリアルさだった。
やはりこれは現実の出来事なのか。
真っ白になっていた頭だが、現在心臓に起こっている危険を回避するべく、次第に機
能を取り戻してきた。そして、
「ちょ……いきなり――さっきから何してんだよ!」
やっと体の自由が利くようになった俺は、至近距離にあった女の側頭部を手の平で
横へとずらす。
「ふみゅっ!?」
何やら可愛らしい声をあげながら、女は俺の顔から引き離されていく。
俺はすぐさま上半身を起こし、尻餅をついたような状態のまま、手足を小刻みに動か
して女との距離をとる。
さっきまでは零距離に近かったため、部分的にしか見えていなかった顔だったが、こ
うしてある程度離れることでやっと全体の顔――さらには全体像を見ることができた。
直後、心臓が胸から飛び出すんじゃないかと思うくらいに、大きく跳ね上がってしまっ
た。
目の前にいる女――少女が可愛かったのだ。それも生半可な可愛さではない。アイ
ドルオーディションに出れば、十中八九アイドルになれるだろうと思うくらい可愛かった
のだ。
風でなびいている、やや前側が長めのショートカットの髪。その揺れる髪の隙間から
見える大きく綺麗な瞳。鼻も……唇も整った形をしている。
それらのパーツを形成する顔も、その小柄な体に適した大きさであり、今はしゃがん
だ状態にいるが立ってみれば理想的な七頭身だと思う。
一目見ただけで惚れてしまった。直球ど真ん中のストライクゾーンである。
そんな少女が俺にキスをしていたと思うと、顔が一気に熱くなるのを感じ、波打つ鼓
動が更なる急上昇をしていく。
そんな俺に、少女は四つん這いのまま、薄っすらと笑みを浮かべながら近づいてくる
と、
「とりゃあ〜」
可愛い掛け声とともに、俺の上半身を押し倒した。
鈍い衝撃が後頭部を襲い、脳が揺らされたために意識が遠のいていく。が、何とか
意識の糸は切り離さずにいることができた。地面がコンクリートではなく、草と土だった
のが幸いしたのだろう。
だが多少の弾力がある土といえども、ゴムのような柔軟さは持ち合わせていない。
勢いよく打ち付ければ痛いのには変わりなく、目から火花が出たような気がした。
軽い脳震盪を起こして動けないでいる俺に、少女は馬乗りになって再び口付けをし始
める。
「んっ……ん――」
本当に一体何なんだ? 何でこんな美少女が俺とこんなことを?
疑問は尽きないものの、俺にはすでに抵抗する気がなかった。
見知らぬ女だろうが、こんなアイドルみたいな少女に熱いキスをされているのだ。役
得としか思えない。少女の気の済むまで、この柔らかく暖かい唇の感触を味わってい
よう。
頼むから俺の心臓よ、止まらないでくれよな。
――なんてことを十分前に思ったのだが、未だに少女は飽きる気がないようだった。
すでに唇を交わした回数は五十回を超えており、あまりの多さに正確な数はもう分か
らない。
最初は役得だと思って甘んじてなすがままにされていた俺も、この異様な展開を前
にし、次第に何だか分からない不安に駆られて怖くなってきた。さっきまではいい意味
での興奮で波打っていた心臓の鼓動も、今では恐怖心からくる冷たい鼓動へと変化し
ている。
「だから……さっきから何をしてんだよ、てめえは!」
純粋に恐怖を感じていたために、俺の口から出た言葉には優しさのかけらもなく、自
分でも驚くくらい怒気を孕んだ口調になっていた。
そして、一度離した唇を再び近づけようとする少女の顔を両手で拒む。それでも少女
は「キスもっとしようよー」と言って、無理矢理にでも迫ろうとしてくる。
「さっきから一体何なんだよ? そんなに男とキスしたければ、他のやつとすればいい
じゃねえか! さっさと俺の上から退(ど)きやがれ!」
俺がそう怒鳴ると、少女は肩を一度大きく震え上がらせた。
やっと分かってくれたのか迫るのを止めると、素直に俺の上から退く。そして今度は
横に座り込み、俺の顔を見るや否、
「僕とキスをするのが嫌なの?」
瞳を潤ませながら、力なくそう聞いてきた。
「それは……」
さっきまで満開の花のように咲き誇っていた笑顔が突如一変し、今にも散り果てる儚
げな花を思わせるように悲しむ女の涙を目の当たりにし、俺は完全に怯んでしまった。
恐怖や怒りなどが一瞬にして霧散してしまう。そのために、今の勢いが消えてしまって
何にも言えなくなってしまった。
そんな俺に対し、少女は涙を拭うとはっきり言い放った。
「僕は、もっと君とキスしたいよ」
そう言った瞳は、真っ直ぐに俺の瞳を捉えている。
だからこそ分かった。
俺の瞳に映る、その可愛く大きな瞳は嘘を言っていない。今この少女の言った言葉
は、偽りのない純粋な言葉だと。
だからこそ不思議に思わずには――その理由を聞かずにはいられなかった。
「何で……だよ?」
さっきの怯みが抜けきっていなかったらしい。
少女に問いかけた言葉は非常に弱々しく、かなり女々しい男のような印象を自分自
身で感じた。少し恥ずかしい。
けれども少女はそんな口調など気にしてはいなく、宝石の如く瞳を輝かせながら、
嬉々として俺の質問に答えてきた。
「僕はね、キス魔なの!」
「は?」
意外すぎる答えだった。
あまりに意外すぎて何の反応も返すことができない。一体どう返せと言うのだ。
俺の戸惑いに微塵も気付いていない少女は、さらに声を荒がしながら、
「だからこれまで、僕がいいと思った人とキスをしてきたの。一人残らずね」
「はぁ」
「でね、今日はお日様の光が気持ち良いってことで散歩していたら、偶然好みの男の
子――君を発見! これはキスしないといけないと思ってしてみたら――」
少女は言葉を一度区切ると、大きく息を吸い込んだ。そして何か大きなものを一気に
吐き出すように、
「何と! 君の唇が、僕の唇にジャストフィットしたんだよ! もう、瞬間的に運命を感じ
たね。『僕の唇は、君と出会うために生まれてきたんだ』って!!」
最後の言葉を強めに言い切るや否、少女は驚くほどの早業で俺の唇を再び奪う。
「――!?」
気付いた時には、すでに視界は少女の顔で埋め尽くされていた。睫毛(まつげ)の一
本一本までが見えるほどだ。
だが今度は、一度軽くキスをしただけで顔を離した。
「うん。やっぱり今までしてきたどんなキスよりもいい! うまく言えないけど、体に電気
が走ったような感じで痺れるよ〜!」
両腕を折って前にやり、拳を握った状態――ボクシングのファイティングポーズに似た
格好――をしながら、その腕を小刻みに上下左右へと震わせる。
そして飽きずに再びキスしようとするが、俺はそれをひょいっと避ける。
「何で〜? 僕のこと嫌いなの?」
拒否されたことが悲しかったらしく、再び少女の瞳は涙目に戻ってしまった。
それにいわれのない罪悪感を感じながらも、何とか心の奥に押し込めて俺は答え
る。
「嫌いとかじゃなくて、そもそも赤の他人同士だろ? いきなりこんなことされても困る
んだよ。キスっていうのは……ほら、好きな人同士がするものだろ?」
などと綺麗事を言ったものの、半分くらいは嘘だった。
赤の他人だろうとも、綺麗な女の子とキス――しかもファーストキス――できたのは
嬉しかった。だからもっとしたい気持ちはあったのだが、何だろうか……俺の中の何か
が関わりを持つなと危険シグナルを発信しているのだ。
「僕の名前は菜乃だよ。君の名前は? 何て言うの?」
「あ、俺は淳也」
唐突に始まった自己紹介のために、すごく簡潔な素っ気無い返答になってしまった。
「そっか。淳也って名前なんだね」
「ああ」
すると菜乃と名乗った少女は軽く何度か頷くと、
「はいはい、質問」
まるで授業中に分からないところを先生に聞くかのように手を高げ、
「さて、僕の名前は一体何でしょう?」
そんな意味不明な質問を問いかけてきた。
「は? 菜乃……だよな? ついさっき自分でそう名乗っただろ?」
何日か経った後に聞かれれば忘れているかもしれないが、いくらなんでも十数秒前
に聞いたばかりの名前を忘れたりなんかしない。そこまで馬鹿な男ではない。
「はい、正解」
天に向かって上げられていた手を素早く下ろし、俺を指差してそう言った。
「これでお互い、赤の他人じゃないよね。名前知ってるんだし。じゃあキスしよっか」
「は?」
変な理屈をこねて菜乃は再び俺の頬に手をやるが、それを許さず即座にはらった。
「とりあえず待て。百歩譲って知り合い同士だとしても、付き合ってないだろ」
その言葉を聞いた菜乃は可愛く首を傾げながら、
「僕のこと好きじゃないの? 僕は淳也のことが好きだよ?」
「う……それは……」
好きじゃないと言えば嘘になる。外見だけで見れば、断る理由など微塵もないのだ
から。
ただ、素直に首を縦に振るのは危険だと、俺の直感が警告していた。
「僕と付き合おうよ。僕は結構好きな人には尽くすタイプだよ? お得だよ? 買い時だ
よ? 今なら特別に無料だよ?」
余程俺が気に入ったのだろうか。すごく自分を安売りした、変わった告白の仕方だ。
よくもまあ初めて会った男にここまで言えると関心を通り越して呆れてしまう。
というか、『買い時』や『特別に無料』なんて言われて、変な妄想してしまうのは俺が
穢れているからなのか? いや、きっとこれが普通なんだろう。
「ねっねっ、付き合おうよ。これを逃がしたら未来永劫呪われちゃうよ? サバンナの奥
地でツチコノに食べられちゃうよ? 宇宙人に脳みそいじられちゃうよ? 焼きたてのパ
ンが頭にぶつかって交換されちゃうよ?」
「なんだそりゃ」
告白の後半部分が全体的におかしい。意味不明なセリフが満載だ。すでに告白です
らない言葉になっている。だが、突っ込みどころが多すぎて細かく突っ込む気が起きな
い。勝手に言わしておこう。
「――ということで、世界滅亡をさせないためにも、悪の結社に立ち向かうためにも、僕
と付き合おうよ! ねっ!」
「…………」
この女の思考はどうなっているのだろうか。思わず頭を押さえてしまう。これ以上付き
合っていたら、俺の頭がおかしくなりそうだ。
さっき俺が感じた危険はこういうことだったのかもしれない。不覚だ。こんな変なやつ
に惚れられるなんて。
付き合っていられなくなり、早々にこの場を立ち去ろうとするのだが、
「おい、放せよ」
「ヤダ」
菜乃は俺の服の裾を掴んで逃がそうとしなかった。
俺は無理矢理にでも振りほどこうと服を引っ張るが、この細腕のどこにこんな力があ
るんだと思うくらい強い握力で掴んで離さない。このまま不毛なことを続けても、無駄に
裾の部分が伸びるだけだ。
「はぁ、分かったよ。逃げねぇよ」
俺は仕方なく逃げることを諦め、その場に座った――と見せかけて、すかさずダッ
シュして再度逃げようとする――が、
「おわっ!」
座ると思わせて油断した、菜乃の握力が緩んだ隙を狙ったはずなのだが、いつの間
にやら今度は反対の手によって足首をがっちり握られていた。おかげで逃げることも出
来ず、無様に前のめりで倒れてしまう。
「ねえ、付き合って?」
至って普通そうな可愛い笑みを浮かべている菜乃だったが、俺には「付き合ってくれ
るまで逃がさないよ?」という言葉が重なって聞こえたような気がした。
ダメだ。きっと本当に付き合うまで、この場から開放されることはないのだ。俺の勘が
そう言っている。
この場合、どうするのが最善の策なのだろうか。
………………。
…………。
……。
しばらく悩んだが、それほど頭の良くない俺には他に選べる選択肢が思いつかな
かった。
ここは嘘でも「付き合う」って言ってしまおう。その後のことはその後考えればいいさ。
とにかくこいつから早く開放されたい。とにかく一度、一人になって冷静に考えたいん
だ。
こうして俺は安易な決断をしたことによって、この先に起こる数々の災難を知る由もな
く、どこか壊れたような少女――菜乃と付き合うことになったのだった。
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