覚悟を決めた僕は、羞恥心という邪魔なものを完全に心の奥底へと押し込んだ。
こうなったら怜奈ちゃんの望むように、いやそれ以上に、自分のしたいように行動して
やろうじゃないか。
「はい。あーん」
そう言ってさっきのようにまた、怜奈ちゃんの口の中へとたこ焼きを入れてあげる。
「美味しい?」
言った後に気付いた。さっきこれは聞いたんだった。
それでも怜奈ちゃんは素直に美味しいと答えてくれる。
怜奈ちゃんがたこ焼きを飲み込むのを確認して、僕はまたたこ焼きを怜奈ちゃんの口
へと近づける。それに反応して怜奈ちゃんは口を開けてくれたのだが、ここで悪戯心が
表に出てしまった。
怜奈ちゃんの口に入る寸前でたこ焼きの動きを反転させ、あっという間に僕の口の中
へと収めてしまったのだ。
口を開けたままの格好で、何が起きたか分からずに固まってしまう怜奈ちゃん。目を
大きく見開いているように見える。どうやら驚いているようだ。
「あはは。ごめんね。ちょっと意地悪しちゃった」
笑いながら僕は怜奈ちゃんに謝る。
最初から謝るつもりだったのならやらなければいいと思うだろうが、こういう甘いシ
チュエーションは滅多にないわけで、僕はこんな可愛い悪戯を一度くらいしてみたいと
思っていたのだ。
自分がからかわれたことに気付いた怜奈ちゃんは、少し顔を下げるとそのままの状
態で目線だけを僕にやる。すると上目づかいになるのだが、無表情ゆえに睨まれてい
るとしか見えない。
いや、多分睨まれているんだろうな。
「もしかして怒っちゃった?」
自分の憧れを優先した行動はやっぱりマズかったかと心配になる。
軽い冗談のつもりでやったんだけど、いきなりあんな悪戯して遊んじゃったし、不愉快
に思ったかな。
「……怒ってない」
一言そう言うと、怜奈ちゃんは俯かせていた顔をあげ直した。
相変わらずの無表情には変わりないのだが、けれども、今のその表情は怒っている
ように僕には見えた。好感度が下がったのかもしれない。ちょっと暴走しちゃったかな。
しかし、吹っ切れるとこうも自分は積極的になれちゃうのか。この勢いなら、告白もそ
れほど抵抗無しに出来そうな気がするから怖い。
でも、下手に告白して振られでもしたら立ち直れない。
変なテンションの今、勢いだけで告白するのは止めておこう。今のような失敗をする
のが関の山だろうし。
「本当にごめんね。ほんの出来心だったから。今度は意地悪せずにちゃんと食べさせ
てあげるよ」
そしてたこ焼きに爪楊枝を刺そうとすると、横から爪楊枝が伸びてきて狙っていたた
こ焼きを奪われた。
「あれ?」
奪ったのは玲奈ちゃんだった。
それを僕の口に向けてゆっくりと近づけてくる。
「いや、僕はもういいから後は怜奈ちゃんが――」
「……あーん」
怜奈ちゃんの目が「問答無用で食べろ」と言っていた。
それが何だか拒否出来そうにない雰囲気だったために、僕は仕方なく怜奈ちゃんに
従うことにする。
「あーん」
僕が口を開けると、さらにたこ焼きが近づいてくる。
そしてもう少しで口の中に入る寸前で、そのたこ焼きは僕から一気に離れて怜奈ちゃ
んの口へぱくりと食べられてしまった。
それに僕は驚いた。
もしかしたら、と予想は出来ていたものの、怜奈ちゃんがそんなことをするような女の
子には見えなかったからだ。怜奈ちゃんの見方がまた一つ変わった瞬間である。
そんな僕の驚きを、怜奈ちゃんは『食べれると思ったのに食べられちゃった』ための
驚きと勘違いしたのかもしれない。同じ気持ちを味わってくれたと思ったのか、「……仕
返し」と短く言い、
「――?!」
さらに驚くことに、目元や口元が僅かに緩んだように見えた。
それは一瞬だったけれど、僕が初めて見た怜奈ちゃんの笑顔に違いなかった。
作り笑いではない、素で笑った顔はすごく可愛かった。普段も十分可愛いのだが、
やっぱり女の子は笑顔でいるときが一番魅力的に輝いていると思う。
この笑顔が常に見れるようになればいいな、と僕はさっきの笑顔を頭の中でリピート
しながら思った。
気がつけば、僕と怜奈ちゃんは手を繋ぎながら夜店を回っていた。
いつ手を繋いだのか覚えていない。本当に気がつけば手を繋いでいたのだ。
自分から繋いだのか、怜奈ちゃんが繋いでくれたのか。それすら記憶にない。
あの笑顔の何十回目の脳内再生が終わり、現実に戻ってきたときにはすでに、繋
がった状態でゆっくりと歩いていたのだ。
多分、意識が半分飛んでいた自分から何気なく手を繋いでしまったんだとは思うけ
ど、これが怜奈ちゃんから繋いでくれたものだったとしたら、僕はここで喜びの雄叫(お
たけ)びを上げてもいいかもしれない。
はぁ、何でこんな重要なことを僕はしっかりと把握していないんだ。出来ることなら、
過去に戻って真偽のほどを確かめたい。
突然、怜奈ちゃんの足が止まった。そのため、気付かずにそのまま前に行こうとして
いた僕が、必然的に怜奈ちゃんの手を引っ張ってしまうことになる。怜奈ちゃんの体の
バランスが前に崩れてしまった。
普通ならこれくらい難なく体勢の立て直しを出来るのだろうが、今は浴衣姿のために
かなり足の動きが限定されている。
そのまま倒れていこうとする怜奈ちゃんの体を、僕は即座に両手で支えた。軽い重
みが僕の腕にかかる。
「あ、ごめん。大丈夫?」
「……大丈夫」
倒れかかったところをすぐに支えたために、怪我をすることにならなくて安心する。
安堵の息をつこうとした瞬間、甘くいい香りが鼻に飛び込んできた。怜奈ちゃんの香
りだ。
それもそのはず。
怜奈ちゃんの体を僕が支えているために、すごく密着しているのだ。さっきまでほの
かに漂っていた香りが、今やほとんど僕の中に吸い込まれていく。
抱きしめているとまではいかないが、抱き寄せているこの状態に、僕の心臓は壊れ
るかと思うくらいの鼓動を刻む。そして興奮しすぎて頭の中が真っ白になっていく。
怜奈ちゃんが何かを言っているようなのだが、その言葉は僕の耳を左から右へとた
だ通過していくのみ。脳が言葉を拾って、理解することはなかった。
ただただ僕は、現在陥っているこの半密着状態に意識を奪われていた。
ゆっくりとホワイトアウトした思考が戻ってくると、一番最初に頭で思ったことは『この
まま抱きしめたい』だった。
怜奈ちゃんの、キツク抱きしめたら壊れそうな華奢な体。それを僕の胸の中で壊れる
くらいに抱きしめたい。怜奈ちゃんの温もりを、もっと僕は感じたい。僕の温もりを怜奈
ちゃんに感じて欲しい。
そんな願望が、僕の胸の内で沸々と湧き上がってくる。
抱きしめるか、抱きしめないか。二つの選択肢に迫られ、僕は悩む。
怜奈ちゃんの顔を見てみると、今のこの状況を理解できていないらしく、僕の顔を無
言で見上げていた。その表情は変わらぬもので、不快だと感じているようには見えな
い。
これは抱きしめても問題なさそうかな? ……多分……いいよね。
僕は意を決し、怜奈ちゃんの背中へと腕を――
「こらこら、そこの君。佐祐理の可愛い妹に、何をしようとしてるのかなぁ?」
「うっ……いたっ――!?」
回そうとしたところで、突然僕の耳に激痛が走った。
耳が取れるんじゃないかと思うくらい、誰かの手によって強く引っ張られたのだ。
声からして耳を引っ張っているのは女性らしい――と思う暇もなく、その手はそのま
ま僕の耳を引っ張り続ける。
その場でその手を振りほどこうとしたのだが、絶えず引っ張られる痛みで思うように
力が入らず成すすべもなかった。僕に出来たことは、少しでも痛みを和らげようと引っ
張られる方向へ一緒についていくことだけ。
自分の耳を庇うため、必然的に僕の体は怜奈ちゃんから離れていく。
耳を引っ張られる速度と僕の進む速度が等しくなり、耳にかかる痛みが無くなったと
ころで、
「いい加減に離してください!」
やっと僕は誰のか分からない手を振り払った。
見ればそこには、程よく小麦色に染まった肌をした綺麗な女性が立っていた。
あまりに綺麗すぎて一瞬見惚れてしまう。
美白こそが美しさを際立たせる秘訣、と誰かが言っていたが、目の前の女性はそれ
を真っ向から否定する美しさを兼ね備えていた。
外見だけではない、内から溢れ出る内面の美しさ。
そんな見えない美しさを、僕はこの女性から感じているような気がした。
見惚れている僕に、女性は胸のあたりで両腕を組みながら、少し怒ったような口調で
言った。
「怜奈ちゃんに随分接近していたけど、君は誰? ナンパ君かな?」
「え……ちがっ――違いますよ。僕は怜奈ちゃんの……」
その後の言葉が出てこなかった。
実際のところ、僕は怜奈ちゃんにどう思われているのか知らないのだ。好き・嫌いの
話ではなく、友達なのか知り合いなのか。それがいまいち分かっていないのだ。
僕は一体、怜奈ちゃんにとってはどんな位置にいるのだろう。
「僕は怜奈ちゃんの――何なの? 途中で言葉を止めないで欲しいなぁ。やっぱり君
はナンパ君だったのかな?」
言うべき答えが分からずに言い淀んだのを誤解されたらしい。
「残念でした。佐祐理の目が届くうちは、大事な妹の怜奈ちゃんに変なことはさせない
んだから。分かったかな、君?」
「……あ……えーっと……」
突然現れた怜奈ちゃんの姉――佐祐理さんに、そんな釘を刺されてしまい、僕はた
じろいでしまう。
それでもナンパ君ではないと否定したかったのだが、誤解が解けた後も警戒された
ままかもしれないと考えてしまい、そうやって後のことを考えるあまり、今すべきことが
疎かになってしまった。
そのため、佐祐理さんは僕のことを完全にナンパ君だと確信してしまったようで、
「何々? こう言われても諦める気がないの? なかなか根性があるんだねぇ」
「それは違――」
「でもダメ。どうせどこか人気(ひとけ)のないところに誘い込んで、嫌がる怜奈ちゃんに
あんなことやそんなことをする気なんでしょ? 自分の妹がそんなことになるなんてこと
を想像しただけで、佐祐理はもう興奮――じゃなくて、悲愴感に満たされるよ! だか
ら、怜奈ちゃんを好き勝手にはさせません! そういう楽し――酷いことをしたければ、
他の人を探してやりなさいな」
そう言うと佐祐理さんは僕から視線を少し横に外し、
「ほら、怜奈ちゃん。下心を持った男の子にまた捉まると困るから、一緒に回ろうか」
いつの間にやら後ろにいた怜奈ちゃんを見ると、僕の横を抜けて怜奈ちゃんの手を取
り、そのままどこかへ連れて行こうとする。
その光景を僕は振り返りながら見送る羽目になったのだが、十歩も歩かぬうちに怜
奈ちゃんの足が止まった。そして僕を見て振り返る。
「あれれ。どうしたの? 」
距離が離れているために正確には聞こえなかったのだが、怪訝そうに思った佐祐理
さんが怜奈ちゃんにそんなことを聞いているようだった。
それに対して、怜奈ちゃんも口を動かして何かを答えている様子だったが、怜奈ちゃ
んは元から小声だ。距離が離れている状態では、何を言っているのか聞き取ることは
全然出来なかった。読唇術でもあれば読み取ることは出来たんだろうけど、あいにくそ
んな凄技は持ち合わせてはいない。
何をこっそり言っているのか気になっていると、突然、佐祐理さんが怜奈ちゃんの両
肩を掴んで叫ぶようにして言った。
「え――!? それってホントなの? 佐祐理はすごく驚きだよぉ?!」
すごい驚きようだった。周りにいた人が一斉に佐祐理さんを見てしまうほど、その声
は大きかった。何を聞いてあそこまで驚いたのだろうか。
不思議に思っていると、佐祐理さんを見ていた僕の視線と佐祐理さんの視線が交差
した。
その瞳にはさっきまでの警戒の色はすでになく、代わりに物珍しそうな好奇の色が
見えているように思える。
視線を合わせたまま、佐祐理さんは薄ら笑みを浮かべながら僕の元へ戻ってくる。そ
の足取りはやけに軽かった。
「へぇ。この男の子がねぇ。……それに玲奈ちゃんもまた……あはは」
佐祐理さんは僕の周りをぐるぐる回り始めた。体を低くしたり高くしたりしながら、何度
も視点を変えて隅々まで僕を見ている。……観察している、という言葉の方が正しいか
もしれない。
「確かに……佐祐理の目から見ても……うん……」
「……あの……」
綺麗な女性にそこまで凝視されると困ってしまう。どう対応すればいいか分からない
し、見られていると思うとかなり恥ずかしい。目線が決まらず、ひたすら目が泳いでしま
う。
しばらく居心地の悪い気分を味わっていたのだが、やっと僕の値踏み(?)が終わっ
たのか正面で動きを止めてくれた。
「佐祐理も唯ちゃんも少し変わってると思ってけど、さすが姉妹ってところだね。怜奈
ちゃんもなかなかの曲者だなぁ。佐祐理は驚きだよぉ」
そんなセリフをなぜか僕に向いて言う。
言う相手が間違っているのでは? と思ったのだが、気付くと後ろに怜奈ちゃんが
立っていた。
いつの間に後ろに移動したのかと一瞬不思議に思ったのだが、実際は僕がその場
で半回転していたらしく、怜奈ちゃんがわざわざ後ろに回っていたわけではないよう
だ。佐祐理さんに見られているときに、その視線から少しでも逃げようとして無意識に
回転していたんだと思う。
「さっきはごめんねぇ。さっきも言ったかもしれないけど、てっきり怜奈ちゃんの可愛さに
悪戯心を露わにして、人気のないところへ連れ込んでもう口では言い表せないけど佐
祐理はすごく言い表したいぞ! みたいなことをしたくてナンパしてる男の子かと思っ
ちゃって。……あ、でも決して見た目から判断したわけじゃないよ? 君の外見自体は
普通っぽいしね。ただ、な〜んか鼻の下が伸びてて、今にも襲いかかりそうな雰囲気
だったからそう勘違いしただけ、うん。佐祐理的にはそうシチュエーションも嫌いじゃな
いんだけど、自分の可愛い妹がそうなるのは見過ごせなかっただけで。……あ〜、で
もお互いに知った同士だったし、別に止める必要もなかったのかぁ。あのまま遠くで見
れてば面白い展開になったかもしれないのに……なんか惜しいことをしたかなぁ。……
おおっ、いいこと思いついちゃった。佐祐理はもう帰るってことにして、別れた振りして
遠くから見てれば今度こそ面白いものが見れるかも。さっきもなかなかにしていい雰囲
気っぽかったしねぇ。この男の子が頑張ってくれることを期待して、さっそく二人の尾行
作戦開始しよっと。うんうん」
そこまで言って首を縦に二回振ると、
「――あっ、ごめんねぇ。本当ならちゃんとした自己紹介をしたいんだけど、この後仕事
があってすぐに行かなくちゃいけないの。だから簡単な今日のところは簡単な自己紹
介だけで。美坂佐祐理です。以後お見知りおきを〜」
そして右手を僕に差し出してくる佐祐理さん。
握手をしたいんだと容易に想像できたけど、僕は手を差し出さなかった。わざとでは
ない。呆れてしまってすぐに体が動かなかったのだ。
「あの……全部口に出てますよ……」
「ほえ?」
僕の言葉が足りなかったらしい。佐祐理さんは首を右に傾げて僕を見る。
「思っていたことが全部。尾行作戦とか」
突如佐祐理さんが固まった。首を傾げた状態のまま、少し笑顔のまま、時間が止
まったかと錯覚するほど石の彫刻のように動かなくなってしまった。
「…………あの――」
「――あっちゃ〜。全部聞かれちゃってたのかぁ〜」
可愛らしい言葉を出しながら額に手を当てる佐祐理さん。やっと佐祐理さんにも時間
が戻ったらしい。
途中までは僕に言っていた言葉で間違いなかったのだが、本人の気付かぬうちに心
の声に変わっていたようだ。すぐには僕もそれが分からず困惑してしまった。
何でそんなことを僕に向かって言うんだろう。これはこの人なりの、遠まわしに「怜奈
ちゃんに手を出しちゃダメ」という警告か何かなのかと思ってしまったほどだ。
でも嬉しいことに違ったらしい。むしろその逆だったのかもしれない。
「ちぇっ、何で口に出しちゃったんだろ。つまんないなー」
僕が心の内で胸を撫で下ろしていると、佐祐理さんは口を尖らせながら悔しがってい
た。
佐祐理さんって外見は大人なんだけど中身は子供みたいな人だな。
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