玄関口で1人、ぽつんと残された俺。
帰りたい気持ちでいっぱいけど、さすがにここで帰るわけにはいかないよな。
それならば唯の去っていた方へ追っていこうと思ったが、人の家を勝手に歩き回るのも
失礼なのかと思い、どうしようかと途方に暮れてしまう。
「いてっ!」
手持ち無沙汰にぼーっと突っ立っていると、突然頬にパシンと強い痛みが走った。
何かが勢いよく当たったようだ。
「なっ、何だ?」
跳ね返って絨毯の上へ落ちたものに目をやる。
それは輪ゴムだった。
何で輪ゴムが飛んできたんだ?
飛んできたと予想される方向に顔を向けて見ると、そこにはいつの間にか1人の少年が
立っていた。おそらくまだ小学生なんだろう。俺の胸くらいしか身長がない。
それに半袖半パンの服装からしても、それを容易に連想できる。
いかにもな、小学生の少年である。
家の中にいるという事はおそらく唯の弟なんだろう。
しかしその少年を見て、俺はどうしても気になる事が1つあった。
それは――初対面のはずのその少年になぜか睨まれている事。
目を吊り上げていて、どうにも怒っているようにしか見えない。
「おまえ、唯の『カレシ』ってやつなのか?」
そう聞いた声もいかにも怒っている口調である。
初対面でなぜ俺は恨まれているのだろう?
前にどこかで知らず知らずのうちに恨まれるような事でもしてしまっていたのだろうか?
「おい! こたえろよ! おまえは唯のなんなんだ?」
苛立った口調で少年は答えを求めてくる。
何だか生意気な少年だと感じた。
年上の人への礼儀がなっていない。それも初対面(?)の相手に向かっていきなりの口
調だ。
「おいおい。会って初対面の人に向かってその喋り方はないだろ?」
「うるさい!」
気になったので軽く咎めるように言うと、少年はいきなりポケットの中にあった輪ゴムを
俺の顔に向かって勢いよく飛ばしてきた。
今度はしっかり撃つ瞬間から見ていたために、とっさに反応して俺は避ける。
輪ゴムはさっきまで俺がいた場所を空しく通過するのみで、何にも当たる事無くそのま
ま床へ墜落していった。
「今のは危ないだろ! いくら輪ゴムだからって顔目掛けて撃つのは危険なんだぞ!」
俺は少し怒っていた。
会っていきなり輪ゴムを飛ばされ、ガキにタメ口をきかれる。
今のだって、もし目に当たりでもしたら失明の危険性だって示唆出来なくもない。
いくら子供相手でも笑って許されるような事ではないのだ。
さらに強く怒ろうとするが、その前に少年の方が捲し立てるように怒鳴った。
「うるさいうるさい! 唯はオレのもんだ! しょうらい、オレがお嫁さんにするんだ! だ
からおまえなんてきらいだ! さっさとどっかきえろよ!」
「……は?」
怒りを忘れて呆然としてしまう。
「だから! 唯はオレのもんなんだ! どこぞのうまのほねともわからないやつなんかに
やるもんか!」
再び少年は輪ゴムを飛ばしてくる。
こいつ何を言っているんだ? 唯の弟じゃないのか?
それにもしかして、外見は10歳くらいに見えるけど実は俺と同じ年くらいだったりするの
か?
そんな考えが頭の中をよぎる。
だが行動パターンや喋り方を見る限り、外見相応の歳に思える。輪ゴム飛ばしなんて
高校生にもなればやらない事だ。
「馬の骨ってなんだよ。目上の人には敬意を払いましょう、ね〜」
怒りを込めて少年の両頬を掴んで伸ばしてやる。
「いひゃいいひゃい。ひゃめろ、このひゃりょう!」
子供の体はやはり柔らかい。かなり頬が伸びている。
「あら? 翔君、大声出してどうしたのかしら?」
少年にそんな事をしていると、遠く向こうにある階段から降りてくる女性がいた。
佐祐理さんよりももっと年上の女性。唯の母親だろうか。
黒いパーティードレスに、キラキラと光るピンクのスパンコール付きストール。首には
パールのネックレスがかけられており、すぐにでも王宮の舞踏会に出られそうな格好をし
ている。
少年は女性の姿を見るや否、俺の手を思いっきり叩いて逃げる。そして俺を指差して
こう言った。
「母さん! こいつがオレの唯をとろうとするんだ! なにか言ってやってくれよ!」
翔と呼ばれた少年はその女性の事をそう呼んだ。
という事は、やっぱりこの少年は唯の弟なのか?
だけどさっきは「お嫁さんにする」なんて言ってたし――あ、そっか。なるほど。
さっきから感じていた疑問が急に氷解するように解けた。
複雑に考えることなんて無かったんだ。少年はまだ子供。だから考えも子供なのだ。
だから実の姉弟同士で結婚出来ない事なんてまだ理解出来てない故に、あんな事を
言っているのだろう。
いわゆるシスコン少年なんだな、この翔は。そうと分かれば生意気ながらも可愛いもん
だ。
しっかし、母親に助け舟を求めるなんて……どう考えても見たまんまの子供だよな。
女性はこちらに歩いてきながら、翔が指差した先にいる俺へと視線を移す。
少し不思議そうな顔をしながら女性は聞いた。
「あなたはどちら様かしら?」
「あ……えっと……お――ぼ、僕は唯……さんのクラスメイトの、草薙と言います。
今日は……唯さんに、呼ばれて来ました」
緊張のあまりにしどろもどろに答えてしまった。なんだか無性に恥ずかしい。
すると女性は穏やかな笑みを浮かべ、
「まあ唯ちゃんのお客さんですか。あの子が男の子を家に呼ぶなんて初めての事よ」
「はぁ……そうなんですか……」
「ええ。余程あなたは気に入られたようね」
「はぁ……」
「あの子は自分の趣味に夢中になっていて、男の人には見向きもしないのではないかと
心配していたけれど、あなたを見て少し安心しましたわ」
「はぁ……」
さっきから相槌しか打ってない俺。緊張していて他に言うような言葉が無い。
すると今まで大人しかった翔が大声を出した。
「母さんなに言ってんだよ! こいつはどこぞと知れぬやからだぞ! オレの唯にまとわ
りつくわるい虫だぞ! がい虫だぞ! なごんでないでおい出してくれよ!」
子供のくせして色々難しい言葉を知っている。それも貶し言葉に長けているようだ。
こういうのをマセガキと言うのだろう。ホント、生意気だ。
売り言葉に買い言葉で返そうと思ったが、この女性のいる手前、下手な言葉を吐くわけ
にはいかなかった。
静かに吐き出せなかった暴言を喉の奥へと戻し込む。
これは少し悔しいな。負けたみたいで。
「翔君。人に向かってそのような事を言ってはいけません」
女性が俺の変わりに、やや厳しい口調で暴言を吐いた翔を咎める。
「だって!」
「言い訳はしなくていいです」
反論しようとした翔の言葉を厳しい口調で切り捨て、さらに言葉を続ける。
「草薙さんは唯ちゃんの呼んだお客様なのよ? お客様には礼儀を持って接するように
教えているはずでしょ? それに何度も言っているように、血の繋がった同士の結婚は
出来ないの。……分かりましたか?」
そして最後は諭すように優しい口調で女性は喋り終えた。だが、
「……おきゃくさま、だとみとめても、唯とけっこんできないのはなんでだよ!」
「少なくともこの国では法律で決められているために、姉弟同士の結婚は許されない事な
の」
「……じゃあこの国いがいでけっこんすればもんだいないんだろ?」
翔はなおも母親に食い下がる。
女性も手を変え品を変え諭そうとするが、子供独特の意外な考えに少し苦戦しているよ
うだ。なかなか納得してくれない。
すると次第に品の変える方向性が現実的な――大人な話に向かっていく。
それはもう、年端のいかない子供に教えていいのかよ、みたいな話だ。
その中には俺の知っている奇形児の話も出てきた。血の濃い者同士が子供を作ると、
遺伝子情報の関係でかなりの確率で異常な状態の子供が出来る話だ。
それだけならまだしも、奇形児の恐ろしさを、言葉に強弱をつけて巧みに表現するから
怖いのなんの。
臨場感溢れる内容過ぎて、隣で聞いてるこっちもおぞましくなって背筋が凍るかと思っ
た。
俺がそうなんだから翔はもっと怖かったんだろう。
もう食い下がる事はせずに、ひたすらわんわん泣き出していた。
この人、子供にも容赦ない人だな。
「ごめんなさいね。少し怖かったかな? でもこれで分かったでしょ? もう姉弟同士で結
婚しようという事はもう考えないように」
女性は大泣きしている翔の頭を優しく撫でる。そのまま泣き止むまで撫で続けていた。
俺は心底思った。
翔は重度のシスコンだと。
やっと泣き止んだと思えば、
「それなら……それなら! オレはエラくなって、きけいじの生まれないようなくすりを
つくってやるんだからー!」
と捨てゼリフを残して走り去ってしまったのだ。
「翔君にも困ったものだわ」
これには女性も呆れ顔だった。
あれだけ怖い思いをさせられても想いを諦めないのは子供にしては感心だが、その方
向性がどうにも危ない方向である。同情を禁じえない。
だが、これに関して唯はどう思っているんだろうか。気になるな。
「ところで唯ちゃんは一緒じゃないのかしら?」
気を取り直して女性は聞いてきた。
「えーっと――」
その答えを簡潔にまとめようと頭の中で整理していると、
「あっ、ごめんなさいね。草薙さんの名前を聞いといて、自分の自己紹介がまだでしたわ
ね」
そう言って簡潔に自己紹介を始めた。
「私の名前は美坂愛(みさかあい)。もう分かってると思いますが、唯ちゃんや翔君たちの
母親ですわ」
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